チラシの裏

何が何だか

国破れて山河あり

梅雨である。

湿気が高まると、私などは口や鼻を軽く塞がれたような気分になるが、植物はこの上なくイキイキとしはじめる。朝に夜にと物言わず佇むばかりの植物を眺めながら僅かに抱く共感の念が崩れる瞬間だ。アタシたちって、気、合わないよね。

しかし、いきものの元気な姿を見るのは気分が良い。ミントにいたっては、この瞬間のために生きてたと言わんばかりの育ちっぷりを披露してくれる。実に愉快な緑である。

植物との日々は切り花から始まった。一本目はバラ、二本目はユリだった。当時愉快とは言い難い日々を過ごしており、週末に小さなスケッチブックとペンを鞄に放り込み、木であったり楔であったり、人気の無い場所に座り込み、目についたものを気まぐれに描きつけることを細やかな癒しとしていた。何処かに行きたいというよりは消え去りたいという思いが勝っていた。積み重なる疲労を心身に抱えて戻り、精神の強張りをほぐすこともろくに出来ずに明日を待つだけの毎日を繰り返すうちに、ワンルームのアパートが牢獄のように思えた。私は、スマホの待ち受けを『ショーシャンクの空』の脱獄シーンに変えた。それを眺め、いつか訪れるであろう鬱屈した日々の終わりを夢想しながら希望を養い、己を繋ぎ止めていたのである。環境が変わった今でもなおアンディは私のスマホで天を仰いでいる。

そんなわけで部屋に心を動かされるような何かを欲していた。花は綺麗だった。花を描きたいと思った。しかし、スケッチブックに描かれた花はぐにゃぐにゃと歪で軽やかさに欠けていて、息苦しさを忘れさせてくれるものではなかった。

ペットボトルに生けられた花は、乱雑に散らかった空間の中で唯一澄んだ色を見せていたが、色を保ちながらも次第に萎れ、花弁を散らし、項垂れたように茎を折り曲げ、静かに枯れた。

以降、私の部屋に植物は途絶えることなく在り続けている。

….…と、記憶の断片を無理矢理それっぽく繋ぎ合わせて書いてみたら途端に漂う「ほんまか?」感。日記というものは、しみじみ信頼出来ない語り手による叙述トリックのような風情が漂う代物であると思った次第。

だがしかし、小さなベランダに生い茂る緑は、時々確かに私に呼吸の仕方を教えてくれる。