チラシの裏

何が何だか

東へ西へ

タニシがやって来た。

一匹110円也。

貝殻に収まって、うねうねと動く生物はちょっと….…。そんな特に深い理由があるわけでもない苦手意識は、メダカマスターへの道を前にあっさりと吹き飛んだ。

ビニール袋の中で水の揺らぎにころころ転がる巻貝を帰宅するなりセイッとバケツに放り込む。砂利の上でじっと物言わぬ石のごとく丸まっているかと思いきや、動く。触覚をぴこぴこさせながら、水の世界を這い回り、知らん間に稚貝を産み落とす。繁殖、早くね? バケツの縁に張り付いた米粒大のタガメを眺めながら、ベランダランドの住民たちの今を生きまくる姿に本日も感嘆せずにはいられないのだった。

睡蓮への道

元気ですか?

ない。

混迷極まる世を今日も暗く濁った眼差しで生きている。生きているからLUCKYだ、と股間に葉をつけた集団が歌い上げてみせたのは、いったい何年前か。今は生きるにはLUCKYが必要な時代なのである。

元気、出るか?

そんなわけで、メダカ用の底石を取り寄せた。米を炊くのも面倒だと、冷凍うどんをすすって生きている人間が、米粒大の砂利をボールで研ぎ洗いしている。不思議なものである。

バケツの底に砂利を敷き、水にバクテリアを放流する。煙草を吹かし、メダカを待ちながら揺れる睡蓮の葉を眺める。まだあわてるような時間じゃない、心の中の仙道が告げる。

ホテイアオイが浸かったバケツにも、うっすらと苔が生え始めた。我が家のメダカは三組に分かれる。睡蓮組、ホテイアオイ組、アナカリス組である。メダカが逝ったのは睡蓮組だ。睡蓮バケツの内側は、苔で緑に染まっていた。

苔掃除にはタニシが良いという。

次はタニシだ。私は思った。

気まぐれに手にした睡蓮のために、桃太郎よろしくバケツに仲間が増えていく。

水草日記

睡蓮がやって来て半月が経った。

ベランダに睡蓮が漂っていたら粋ではないか、そんな軽い思いつきだけで、決して安いとは言えない値段の苗を買った。

二十リットルバケツに水道水をどぼどぼ注いで、鉢をそっと沈めて数日後、メダカを放った。八匹の小魚は茎の間を縫って泳ぎ回り、思いの外豪快に餌を食らった。

私、植物、本、そんな昔懐かし脳内メーカーの中身を具現化したかのような一室に、新たな生き物がやって来た。生き物にはバケツに生み落とされるだろうボウフラを始末してもらわなければならない。

立派なボウフラハンターになることを願って、朝起きたらまずメダカ、寝る前にもメダカと、餌の容器を握りしめ、文字通りおはようからおやすみまで小魚を見つめ続けた。

決戦は虫シーズンともいえる夏。しかし夏を前に二匹が逝った。理由はよくわからない。おそらく水質だろう。バケツの内側は苔にぬかるんでいた。

藻を絡ませ水中に漂う白い亡骸に思いの外動揺した。ぱちんぱちんと睡蓮の葉を剪定しながら気を鎮め、何かが始まった気がした。

将を射んとすれば、まず馬を射よ。水面を優雅に浮かぶ睡蓮に辿り着くには、まずメダカを育てなければならないのである。

これからしばらく、メダカに忙しい。

国破れて山河あり

梅雨である。

湿気が高まると、私などは口や鼻を軽く塞がれたような気分になるが、植物はこの上なくイキイキとしはじめる。朝に夜にと物言わず佇むばかりの植物を眺めながら僅かに抱く共感の念が崩れる瞬間だ。アタシたちって、気、合わないよね。

しかし、いきものの元気な姿を見るのは気分が良い。ミントにいたっては、この瞬間のために生きてたと言わんばかりの育ちっぷりを披露してくれる。実に愉快な緑である。

植物との日々は切り花から始まった。一本目はバラ、二本目はユリだった。当時愉快とは言い難い日々を過ごしており、週末に小さなスケッチブックとペンを鞄に放り込み、木であったり楔であったり、人気の無い場所に座り込み、目についたものを気まぐれに描きつけることを細やかな癒しとしていた。何処かに行きたいというよりは消え去りたいという思いが勝っていた。積み重なる疲労を心身に抱えて戻り、精神の強張りをほぐすこともろくに出来ずに明日を待つだけの毎日を繰り返すうちに、ワンルームのアパートが牢獄のように思えた。私は、スマホの待ち受けを『ショーシャンクの空』の脱獄シーンに変えた。それを眺め、いつか訪れるであろう鬱屈した日々の終わりを夢想しながら希望を養い、己を繋ぎ止めていたのである。環境が変わった今でもなおアンディは私のスマホで天を仰いでいる。

そんなわけで部屋に心を動かされるような何かを欲していた。花は綺麗だった。花を描きたいと思った。しかし、スケッチブックに描かれた花はぐにゃぐにゃと歪で軽やかさに欠けていて、息苦しさを忘れさせてくれるものではなかった。

ペットボトルに生けられた花は、乱雑に散らかった空間の中で唯一澄んだ色を見せていたが、色を保ちながらも次第に萎れ、花弁を散らし、項垂れたように茎を折り曲げ、静かに枯れた。

以降、私の部屋に植物は途絶えることなく在り続けている。

….…と、記憶の断片を無理矢理それっぽく繋ぎ合わせて書いてみたら途端に漂う「ほんまか?」感。日記というものは、しみじみ信頼出来ない語り手による叙述トリックのような風情が漂う代物であると思った次第。

だがしかし、小さなベランダに生い茂る緑は、時々確かに私に呼吸の仕方を教えてくれる。

 

 

おひさしぶりの

2021年は日記を書くひとになる。

そんな誓いを胸にして、胸にしたまま飛び出していくこともなく半年が経った。

半年間、何をしていたかというと何もしていなかった。ゆきずりの人間と手を取り合って、その場限りの勢いと感情に身を任せて踊るがごとく、何かにハマり、静かに冷めていく、刹那を繋げるだけの時間を過ごしていた。オタクである。たいへんに、オタクであった。

つまりオタクの日記を書こうとしていた。キャラクターの絵が描かれた板ことアクリルスタンドが我が憩いの四畳間にやって来たこと、おまけにこれまで私の人生に縁が無いものであろうと思ってきた人型のぬいぐるみをとうとう買ってしまった、そんなことをつらつら書き記そうとしていた。ぬいぐるみは作者監修だけあって、視界の隅に入っただけでもフフッとなる見事な出来栄えだ。

しかし連日のニュースが伝えるシビアな現実を前に、オタクの日記を書いてる場合か? そんな気持ちに苛まれ、浮ついた気分はつるつると意識の外へと流れ落ちていった。

その内に、何かを語りたいという欲も消えていった。

煙草を吹かし、海を眺め、時折頭上に影を落とす鳶を見上げる。気まぐれに旅に出ることも出来ない状況に意識を縛られ、いつの間にか空想の中ですら何処にも行けない状態になっていた。

胸の虚ろを埋めるように、半畳ほどのベランダに鉢植えが増えていく。萎れて枯れると、新しい鉢を置く。バラ、クチナシ、ミント、松葉牡丹に木瓜に椿。一部を除いて鉢は絶え間なく入れ替わり、季節ごとにベランダの色も匂いも変わっていく。

いちばん最近やって来たのは睡蓮だ。でかいバケツに水を注いで、メダカを放った。生温い水の中で褐色の葉がゆるやかに開いて、太陽の光を浴び、緑色へと静かに変わる。

水面を埋めて揺蕩う丸い葉を眺めながら、これからどんな日記を書こうかと、そんなことを考えている。

日記のはなし

わたしが幼い頃の遊びに笹舟がある。

笹舟とは、文字通り笹の葉で作った舟だ。

作り方はいたって簡単で、まず葉の両端を折り、三等分の切れ目を入れる。次に右端と左端を真ん中の輪に差し入れて帆先の形に編み込む。それだけだ。

手のひら大の舟を道沿いの排水路に浮かべ、水の流れに遠ざかっていく小舟を、追いかけるでもなく、ただ黙って見つめる。それを、笹の葉を千切っては、飽きるまで、なんとなく繰り返すのだ。

わたしにとって、日記もそのようなものである。

 

張り紙さんの話をしよう。

近所に張り紙さんと呼ばれるひとがいる。わたしが張り紙さんの存在を知ったのは、つい最近のことだ。

張り紙さんの朝は早い。まだ人気のない時間帯に公園にやって来て、便所の壁に紙を貼り、去っていく。

わたしのアパートから公園までは、歩いて行ける距離だ。たまたま早く目覚めたわたしは、白ばんだ空を眺め、ウワサの張り紙さんを一目見ようと思い立った。

冬の朝はひときわ寒い。サンダル履きの素足から、冷気が全身に染み渡っていく感覚にぶるりと身を震わせる。

かじかんだ手で上着のポケットに突っ込んだ煙草の箱を弄って気を紛らわせながら、張り紙さんを待つ。近くを通る人もない。いっそこのまま吸ってやろうかと煙草を掴んだ矢先に、張り紙さんは現れた。

真っ黒なジャージに身を包んだ張り紙さんは、わたしに目をくれることもなく、まっすぐ便所に向かって行く。わたしは慌てて、しかし一定の距離を保って後を追った。

張り紙さんは、チラシの裏にマジックでそのときの気分を書きつけて壁に貼る。誰の目に留まるかわからない。ひょっとしたら見る者すらいないかもしれない。観光地でもない、住宅に埋もれた公園の便所を使う人間など滅多にいない。コロナ禍においては、なおさらだ。

張り紙さんは軍手をはめた手で紙を剥がし、ポケットから取り出したものと貼り替える。表面をゆっくりと撫で、丹念に皺を伸ばす手つきに、いったいどんなことが書かれているのだろうかと、肩越しに覗き込み、わたしはエッと声をあげた。

『お肉おいしい』

それだけだった。

(つまらない….…!)

わたしは動揺した。

咄嗟に張り紙さんの足元に置かれた前日分の張り紙に目を走らせる。

『昨日はよく寝た』

似たようなものだった。

(やはり、つまらない….…)

呆然と立ち尽くすわたしの横で、張り紙さんは淡々と作業を続ける。剥がした紙を小さく折りたたみ、チラシ紙でくるむと、はじめて気づいたかのように、わたしに顔を向けた。

内容よりも、きっと毎日続ける行為そのものに意味があるのかもしれない。わたしは張り紙さんを見つめ返した。

「お肉、好きなんですか?」

相手に踏み込むことに対する躊躇いが勝り、好奇心は遠慮の奥で瞬く間に萎んでいった。わたしの口をついて出たのは、なんとも無難で、無意味な質問だった。

「昨日はスーパーが肉の日でネ」

張り紙さんはぼそりと独り言のような口調で応えると、ちいさく頭を下げ、横を通り過ぎて行った。

私はお辞儀を返し、遠ざかる猫背を見送った。

 

アパートに戻り、スマホの画面を見やる。

そこには、書きかけの文章があった。

内容は他愛のない日記である。十年ほど前に日記を書いていたこと、何故また日記をつけようかと思い立ったのか、そんなようなことがつらつらと記されている。ウソではないが、どことなく白々しい。自分について語っているはずなのに、まるで他人事のようだ。

どうにもしっくりこず、公開する気にもなれないまま、数日放っていた。

わたしは文章をすべて消し、ふと昨日食べたパンのことを思い出した。ほんのりと甘みがあり、塩加減も絶妙だった。トーストもいいが、なによりもパンのふわふわした食感がたまらなく好きだ。

蘇る記憶に、ふたたび文字を打ち始める。

『パンがおいしかった』

私は小さく頷いて、送信ボタンを押した。